ゼロケンです
今回は私がサラリーマンをしながらコーチをしていた途中で起こった衝撃的な出来事についてお伝えしたいと思います。
あの東日本大震災なのですが私はこの事で人生観が変わってしまいました。皆さんの身近でもいつ起こるかわからないことだと思います。
普通の日だと思っていたのに
私は平日日中はサラリーマンをしながら夕方の仕事終わりで週の半分ほどバスケットボールの指導に費やしていました。
スタートから数年目のある日のことです。あの東日本大震災がおこるのです。
私は営業の仕事をしているのですが東北の太平洋沿岸が担当エリアとなっていました。
震災当日はある県の内陸部にいて仕事をしていました。
天候は晴天で3月としてはさほど寒さもなく極めて普通のお昼時間でした。
経験したことのない揺れから
いつものように顧客のお店で納品の作業をしてるとラジオから聞いたことのない不気味な警報音とアナウンスが聞こえてきました。
「地震が来ます!」ですって。
でも当時って「地震かぁ」ぐらいの反応が当たり前でしたよね。
ちょっと揺れてまた元通りみたな。。。
でもアナウンスは「震度6程度です!」って。
ここでも「えーっ大きいのかな!?」ぐらいですよね。本当に日本人の平和ボケですよね。
なんて思っているとあの揺れが始まったのです。
ものすごい揺れが来ました。
揺れの時間は長く感じたのですが実際も長い時間の揺れだったようです。実際は三連発ですから。
体感は5分ほどでした。バチーン!とモノが倒れだし私の作業していた後ろ側の書棚も倒れガラスが割れ。
たまたまやばい揺れだと出口の近くに移動していたこともあり書棚には押しつぶされずに済みました。
後でガラスの破片を片付けながらナイフのように割れてとがったガラスを見ては、流血した自分を想像して怖くなりました。
あっという間に家が停電!後に街も信号も停電したとわかりました。
納品先のお客も何もできず一緒に揺れに耐えるだけで精一杯。
その後揺れは収まったのですがラジオからはありえないアナウンスがどんどん流れてきました。
「津波が来ます!津波高さ予想5mです!10mです!」などなど。
さすがの平和ボケサラリーマンもやばいことが起こっているとの体感値です。
しかも「震源地は東北沿岸です」って!!ここじゃん!!みたいな。
外からは街のサイレンが鳴り地震のアナウンス。
あーなると今自分がどういう状況なのか全くわかりません。
ラジオの情報が頼りなのですが沿岸ではもっとヤバいことになっていそう。
えっ自分の家はどうなっているの!?そうそうスマホで聞いてみようと電話しようとするも全くできません。
「電波が込み合っています」とか「ツーツーツーっ」で使い物にならない。
何をすればよいのかわからなかったのですが一時間ほどでしょうか。
散らかってしまった家の中の片づけを手伝ったあと照明もつかない状態なので仕事もできないと気づき顧客に断って約200 km 離れた自宅へ戻ることにしました。
家に帰りたいのに
街は信号機が機能していないため道路は大混乱。至る所大渋滞です。
このような状況でも東北の人たちは交差点を譲り合いながらゆっくりと運転しあい、車のクラクションを鳴らしまくるとかはありませんでした。
そしてやっと高速道路の近くまで来たら。。。
なんとぉ~っ!
乗れば一時間半ほどで自宅に戻れるはずの高速道路が。
通行止め!
もうすぐすれば日も暮れてくるという状況で焦るも高速道路は乗れない。
一般道に戻るも車は全然進まない。頭の中はパニックです。一つ一つ整理し。。。
幸いガソリンは満タンでガス欠の心配はない。仕方ないですが下道を帰ることにしました。
距離200キロだぞ~って頭の中。
途中のコンビにも真っ暗で電卓片手に販売している様子です。
だんだんに空も暗くなり始めると3月にも関わらず雪が降ってきたし!
ここにきて雪もかぁ!9時は過ぎていたでしょうか4時間かけその日は何とか無事に帰れたのでした。
様子が気になる
日本中があの様子でしたので仕事もできず会社から言われしばらく自宅待機することになりました。
家の停電は震源地からは離れているため次の日には復旧です。
テレビを流すと日ごとに伝わる情報や映像に愕然です。
合間に街に買い出しに行くとなぜか分かりませんが売れ残っていたパイナップルの缶詰とクジラ肉の缶詰を買った記憶が。
今考えると恥ずかしいです。
私が心配していたのは担当している顧客の状況です。
自宅待機してる間も安否確認が取れない顧客もいましたのでいてもたってもいられず一週間ほどしてから現地調査をしに行くことにしました。
道中は
高速道路は被害が無いようでしたので沿岸まで行くことはほど困難ではなさそうです。
問題はガソリン。
スタンドがともに機能しておらず一台につき1000円までの給油制限などがほとんどで、数キロ運転してはガソリンを継ぎ足し向かっていくような感じです。
予定のコースとしては県南部から入り北部に向かって行けるところまで。回れなかったところは次の日に。
宿泊するホテルなんぞありませんから暗くなる前に現地を離れるようにしないといけません。
また暗い中あそこを車であっても走るのが怖いですし。
ラジオは常につけっぱなしで、少しでも何かあったら避難ができるようにと思っていました。
社内にはビデオカメラ、他に 2 L のペットボトル飲料水と食事。
街の様子は
途中まではいつもの通い慣れた道です。
街に近づくにつれて徐々にありえない光景が広がってきます。
よく使ていたガソリンスタンドでガソリンを少しだけでも補給しておこうと思っていたのですが、スタンドの屋根の上まで瓦礫です。
以前よくお昼休みに使っていた道の駅がない。千〇夫の作ったホテルがない。
街が瓦礫の山と化しておりほぼ手付かずの状態でした。
最低限の生活道路だけは瓦礫を撤去して確保しているようで進むことはできましたが街が 全くない状態です鉄筋で作られた集合住宅が残っているのですが2階部分までめちゃめちゃで3階部分も被害にあっているところもありました。
ある建物には全長5mはありそうな丸太が真横に壁に突き刺さっています。
元々の顧客のいたであろう場所に行ってみていないようなら次のところへ。
ようやくお会いできそうな顧客のところに。
車を降りると街全体が乾いたドブのような臭いがしていました。
店舗の中は何日か経っていたこともあり少し泥の残るところがありましたが割と整理されていました奥から出てきた旦那さん。
自分たちのことで精一杯のはずなのにわざわざ訪ねてきた私のために感謝の言葉を述べてくださいました。
本当に東北の人は優しい。
お客BMWは100m離れた所まで流され廃車だそうです(+o+)
よく見ると天井に大きな穴があり
「これはどうしたんですか?」
と尋ねると。。
水で冷蔵庫が浮かんでしまい天井を突き抜けたということでした冷蔵庫の中が空洞のため
ロケットのように一気に上の方に飛び上がっとのことです。
冷蔵庫って重いはずじゃ。。。有り得ないよーっ!
話も早々に
次の現場に行かないと。
北上して行くと瓦礫で道が塞がってしまっていました。
近くのおじいちゃんに回り道があるか尋ねてみました。
道を教えてもらった後に私は「今は何をされていた所なのですか?」聞いてみるました。
すると。。。
避難所の中に娘と孫が避難されていたそうでその後避難所なはずの消防署に津波
行方不明の状態だそうです。
何か手がかりがないか近くを歩いて回っては何日も探しているとのことでした。
子供と孫のことを思うおじいちゃんの気持ちを考えると
かける言葉もなかったのですが
「希望を持ち続けましょう」
という言葉をかけるのが精一杯でした。
さらに北上していくと街全体が焦げ臭くなってきました。
ここは津波の後に出火した火災が原因となり街全体が燃えてしまった場所で、
何日か経過しているにもかかわらずですから
当時の町の様子は想像を絶するものだったと思います。
周りが暗くなってきたのもありビビりの私。この日はここまでで戻ることにしました 。
さらに経過すると
ある日沿岸のお客様が内陸の避難所の方に避難されているという情報が入り様子を伺いに行った時の事です。
町の公民館に避難されているということでしたので行ってみると中は何十人と沿岸から避難されている人たちがいました。
受付に名前を告げ待っていると奥様が。
旦那様は書類の提出などがあり外出中とのことでしたが奥様が当時の様子を語ってくださいました。
その町は先ほどのあの「街全体が火災にあった」
ところの方だったのですが当時は
避難した丘の上から一日中燃える街の様子を見ていたそうです。
家計をやりくりしてやっと買った新車のラパンもどこかに行ってしまったと言っておられました。
また別の顧客の情報が。
行ってみると旦那さんが行方不明になっており安否確認もできないままになってしまいるとのことでした。
お会いできた奥様は丘の上から見えるあの海を見るのが怖いと言っていました。
その奥様も数年前に病気で亡くなられています。
そんなやりとりをこの街に行くたびに思い出しては切ない気持ちになります 。
ミニバスに関してですが私の街は電気も復旧し10日ほどで練習も再開できるようになりました。
選手達とみんな一緒に震災で困っている方々のために黙祷を捧げました。
そして
「被災された人は大変な思いを味わっている。けれども大事なのはいつも通り生活できる人は生活していくということでそれが災害に負けないということです」
と伝えました。
練習できる人は練習していこう。
毎日を普通に過ごせる人は普通にしていこう。
最後に
最終的に私が感じたことは所詮人間の作るものや文明などは自然にはかなわない。
いくら頑張っても地球に生かされているようなものだ。
いつ終わるかもしれない人生なのだからやりたいことをエンジョイしていかなければいけない。
毎日悔いのないようにバスケットを教えていきたいそう思いました。
それは今も変わらずに続けているものです。
私はいつチームの指導することを終わる時が来ても全く悔いがありません。
その時その時を常にベストを尽くしてきたので
いつやめてもよく頑張ったと自分を褒めてあげたいと思っています。
皆さんも悔いのない毎日をお過ごしください。今回はここまでです。